2024 11,24 10:21 |
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2014 11,19 11:25 |
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2014 11,19 11:24 |
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『数百万匹のヒトデが溶けて死んだ。』
昨夜、妻が携帯でmixiニュースを見ながらボソッと呟いた。 『ええええええ!?』 と光の速度で反応する僕。 僕には 『数百万の万引きをした人が、溶けて死んだ。』 と聞こえた。 『どこで?どこで?なんで?なんで?』 詳細は下記Yahooニュース http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141118-00000002-natiogeog-sctch 北米カナダでのことで、原因はウィルスによるものなのだそうだ。 まあ、本来なら大変興味深いニュースなんだろうけどど、僕としては人間が溶けて死んだと思っていたので、しかも万引きの犯人が。 なんかこう、ものすごーくどうでもよく思えた。 |
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2014 11,16 00:32 |
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『持論/レポート』最終日 以前、作品制作の為に百人一首や万葉集を調べていた時、『星』に関する歌が異常なまでに少数であることに気付いた。 幾万の星は、僕からすれば何がしかを作る際に格好の題材。 困った時は『星』だろうという感覚がある。 なのに、星を詠んだ歌というのはごく少数の異色作だった。 浮世絵にも同じ事を発見した。 『星』が描かれていない。 何故だろう。 そんなところから、今回の持論を展開させたい。 僕はオリンピックが好きだ。 否、オリンピックの開会式が好きだ。 スポーツなどあんなものは飾りだ。 オリンピックの開会式というのは開催国の威信を賭けた壮大なプロジェクトであり、唯一無二、一世一代のエンターティメント。 そんな中でも僕が最も興味を引きつけられるのが、各国選手が入場の際に誇らしく掲げる『国旗』である。 国旗というのは、見ているとじつに面白い。 それは、大まかに2つのものに分類出来ると僕は思っている。 (1)哲学を色になぞらえ、パターン化されたもの。 (2)信仰をデザイン化し表現したもの。 (1)には例えばロシア、ドイツなど。赤を使用する場合、その国で起こった独立革命の血の色になぞらえる事は多い。 (2)は、この中でまた大きく分類出来る。 ◎キリスト教(十字架)信仰(または過去の英国領) ◎自然信仰 ◎動物信仰/或は象徴としての動物 こんな感じになるだろうか。 日本の国旗は『自然信仰』、つまり太陽(天体)を表現したものと解釈している。 日本と同様に天体信仰(自然信仰)の国旗は多い。 トルコは月だし、月と星の国があったり。 兎に角、興味を持って見ていると、日本という国は基本的には自然、それも天体にひと際影響を及ぼす太陽を特別視しているのだな、と思う。 それは日本の神話で語られる通りだ。 イザナギが禊いで生まれいでるのがアマテラス、ツクヨミ、スサノオの3柱の神だ。 これを『三貴神』としている。 そしてその三貴神の中のアマテラスを国家形成の拠り所としたのだろう。 アマテラス(太陽)、ツクヨミ(月)ときてスサノオ。 これはまず疑問に思うところだ。 スサノオは天体ではないのか?と。 話を元に戻そう。 浮世絵を見ていて、太陽や月が頻繁に登場するのは、そういった天体信仰が影響しているのかもしれない。 しかし逆に星の登場頻度(浮世絵における)はほぼ皆無と言って良いわけだが。。。 現代の東京の我が家から夜空を見上げてみる。 都会ではまばらに星を感じる事が出来る。 それは点であり光りだ。 とても可愛らしくて綺麗だよ。 しかしこれが実家のある九州で見上げる夜空は同じ物とは思えない。 田舎で感じる夜空の星は単なる『点』ではない。 それは明らかに『天体』と呼ぶべきもので、今ここにいる自分もこの宇宙の一員なのだと感じずにはいられない。 町灯りのベールを脱ぎ捨てた夜空(星空)とはそういうものだ。 さていくら江戸というところが都会であったとはいえ、夜空が見えないほどの明かりが地上を覆い尽くしていたということはないだろう。(※江戸時代のみと限定しない、それ以前も含む) ましてや江戸庶民の夜は早い。 となると、江戸の夜空は現代における田舎と同じように、星々が存在感を放っていたに違いない。 それを誰も見なかったとは言わせない。 見ていたのに、浮世絵にも描かれず、和歌にも詠まれなかったのは、僕には敢えて描こうとしなかったとしか思えない。 それは何故なのか? これについてはおおかたの答えの一部は出た。 あるとき僕は自作品に於ける悪役(ヒール)のヒントを求めて『日本神道』を調べていた。 日本神道に於ける邪神とは何か? 面白い事が解った。 日本神道には、例えばキリスト教で言うところのサタンなどのように、邪神というものはほぼ登場しないらしいのだが、挙げるとすれば天津甕星(あまつみかぼし)という名前の元に僕は導かれた。 この神についてはwikipediaを参照されたい。 一部抜粋する。 ============================= (ここから) 星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。これについては、星神を信仰していた部族があり、それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。 (中略) 葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで建御名方神と同一神とされることもあり、また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。 (ここまで) ============================= 如何だろう。 江戸を遡る事遥か古(いにしえ)の日本列島が、少しだけ霧の中に見えはしまいか。 僕には少し垣間見えた。 戦争(いくさ)だよ。 これについてはいろいろと思うところもあるが、ちょっと飛ばそう。 他民族国家日本と言う。 今の時代のことではない。はるかご先祖様たちの話。 いろんな説がある。 遠くペルシャからの来訪のことも聞いた事があるし、日ユ道祖論なんてのもある。 何も隣接した朝鮮半島と中国大陸だけではない。 もっとグローバルな我々の祖先の姿も充分に想定し得る。 敢えてもっと言おう。 口にすれば馬鹿にされるであろうムー大陸伝説、僕個人的にはそれすらも『無きにしも非ず』と思う。 何故現在の地図だけで物事を語ろうとする? 勿論学術的な根拠なんてない。 ただ、2011年の東日本大震災で町が波の下に沈むのを見て、そう思うに至った。 太平洋側、そちら側にかつて遥か昔、何かがあったとしても今なら信じられる。 不可思議でもなんでもない。 それはいわゆるオカルトで囁かれる、『大陸』の姿では無かったかもしれないが。 小さな島々が散在する形であったかもしれない。 文明というほど大袈裟なものではなかったにしても、文化のようなものがあったとか。 つい先日も、とある映画シナリオライターとこの話をしていた。 『環太平洋地域には不思議と似通った神話/伝説が散在する。』 のだそうだ。 太平洋を囲むように。 ならば太平洋を通じて文化の交流があったと考えてもおかしくない。 広大な太平洋を横断出来ただろうか? それは現在の地図で語れば難しいだろう。 しかし、そこに陸地(中継地点)があったとしたらどうだ。 これらは解決する。。。。 とんでもない脱線をしたが、浮世絵に月が描かれない理由が少し理解出来た気がする。 さまざまな信仰のさまざまな部族(民族)がいた。 そんな中である時は血、ある時は握手(?)を交わしながら、太陽を中心とした国へなっていったのだろう。 『日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち「まつろわぬ神」として描かれている。』 そういう事だと思った。 だから、星を公然と語るという事はあまり縁起の良いものではなかったのかもしれない。 ただこれで全面的に解決したとは僕は考えていない。 大号令でもない限り、クリエイターが表現を敢えて避けて通ることはないと思う。 そこには何か大きな分岐点のようなものがあったのではないだろうか。 いくつか考えうるのだけど、これもまた別の機会に。 酒でも飲んだ際にお話ししましょう。 『倭国(和国)』と呼ばれた。 元来は蔑称であったらしい。 しかし『和』という言葉の持つ意味は現在に至り、様々でも、一定の方角を示している。 『和を以て尊しと為す』『和解』 など。 その意味の示す方角に、この国が形成されていった過程も見えるのではないだろうか。 2011年の大地震の後、ほどなくして小笠原諸島に一つの島が誕生した。 西之島とくっつき、今尚拡大している。 ニュースで見るたびに心が騒ぐ。 国産みの神話そのものじゃないか。 地球は絶えず変化している。 壮大な宇宙的な絵巻だ。 そう思う。 ここでハっとなる。 地球もまた天体の一部じゃないか。 太陽や月、星ばかり追いかけて足下を見ていなかった。 アマテラス(太陽)、ツクヨミ(月)、だとすれば残るは我々のいる地球ではないか!? 我々も宇宙の一部。 とすると、古(いにしえ)の人は星空を見上げ、この地球を含め『立体的に宇宙を感じていた』ということになるのではないか? 見た事が無い筈の宇宙を、、、だ。 もう少し詳しく説明してみよう。 もし『大地』と呼ぶようにこの地球を捉えていたならば、太陽と月は天界(あちら側)、そして我々の大地(こちら側)、と2元的に考えるのが普通ではないのか? 僕が立体的だと言うのは、アマテラス(太陽)とツクヨミ(月)、そしてスサノオを大地と仮定した場合、この3柱を『三貴神』と称するように、3者を同列のものとして扱うのは何故だ? それは『大地』という2元的な解釈ではなく、『地球』という立体的な『惑星』として捉えてるからではないか? つまり『あちら側とこちら側』ではなく、大きな宇宙の中の3つの引き合う特別な天体が見えてくる。 真実は何処か? ロマンというのはそれこそ宇宙のように広がっていく。 何故?何故?と疑問ばかりが浮かぶのに答えは永遠に閉ざされた門の彼方。 そして時間とは忘却の大河だ。 全ては泡と消え失せる幻想。 現在という現実を知っていればこそ、人は幻想に安らぎを求める。 楽しき哉。 即ち、浮き世(憂鬱な世)の幻想。 しかし、古(いにしえ)の人が星空を見上げ、現代人以上に『豊かに』宇宙というものを感じていたことだけは間違いないのだろう。 最後に大好きなアーサー・C・クラークの『2001年 宇宙の旅』からの一文(前書き)を抜粋して掲載しておきたい。 ============================= 『なぜそのような出会いが起こっていないのか?われわれ自身が宇宙の門口に立っているというのに。』 本当になぜだろうか? ここにあるのはそうした尤もな問いに対するひとつのありえる答えである。 だがお忘れなきよう。 これは単なるフィクションなのだ。 真実は例の如く、はるかに異様であるに違いない。 ============================= 終わり 【後記】 本日で『エレキテル草紙』最終日とします。 まだまだ描いてみたい場面はある。 それはまた別の機会に。 最終日は『まつろわぬ星』。 そうデス•スターにしましたよ(笑)。 ※(注釈)浮き世 (語源由来辞典参照) 浮世の「うき(浮)」は、「苦しい」「辛い」を意味する「憂し」の連用形「憂し」が本来の形で、平安時代には「つらいことが多い世の中」をいった。 http://gogen-allguide.com/u/ukiyo.html |
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2014 11,14 19:19 |
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『持論/レポート』 浮世絵の美人画というのを見るにつけ、どうしてみんな同じ顔(パターン)なのだろうと思ってた。 しかしよくよくみてると特徴も見えるようになった。 『ああ、この人は童顔なのだな。』 とか、 『この人は少し日本人離れした目鼻立ちなのかもしれないな。』 だとか。 顔に対する好感というのは時代ごとに違うらしい。 美女、名画として名高いレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』。 『美人?この人が?ウソだろ?』 というのが、子供の頃からの僕の一貫した感想。 故に『モナ・リザ』には様々な説があるようだ。 特に有名なのが、『モナ•リザはダ・ヴィンチ自身ではないか』というもの。 作者本人のサイン入りの証言でも出ない限り、どんな説も憶測に過ぎない。 ただ、あれが絶世の美人だというならば、近代のイタリア映画などを観てモナ•リザに似た女優さんがトップ女優として君臨しないのはおかしいじゃないか。 それはね、昔の人の感覚と現代の感覚が違うからだよ、と結論づければ簡単だ。 しかしそれだけだろうか? 人の感覚とはそんなにも変わるものだろうか? 日本人の美人の顔に対する感覚も大きく変わったと聞く。 たとえば平安時代などはふくよかなおかめのような顔が美人とされていたんですよ、と。 世界が貧困であった昔には、もしかしたら食に困らない裕福な印象を受ける容姿が、人々の羨望の的であったのかもしれない。 話を元に戻すと、江戸時代の浮世絵に見る美人画に、ある意味パターン化された顔デザインを感じていたのは僕だけじゃないと思う。 僕はこう思う。 それは絵師の技法であり主張であったんじゃないか、というのが1つ。 他人の線をマネするのは簡単な事。 観察さえすれば時間もさほどかからない。 難しいのは線を自分のものとすることだ。 これは容易には手に入らない。 だから高名な師に弟子入りし、生活のリズムを共にし、師が何を見つめ考えているのか、体感し習得しようとするのだろうと思う。 描き方を習うというより、師の洞察力を学ぶ、ということではないだろうか。 そうやって自分独自の線というものを確立した中で、夫々の美人の特徴を盛り込んでみたりするのだろう。 『あっちの茶屋の○○ちゃんはかわいいぞ!』 『てやんでえ、こっちの茶屋の△△ちゃんのほうが可愛いやい!』 そういうものだったそうだ。 茶屋には看板娘が居て、店が看板娘を売り出す為に絵師に美人画を描かせる。 ブロマイドだね。 そういう側面が大きいのだと聞いた。 アイドルだね。 AKBだよね。 パフュームだろ。 こりゃあ日本人ってやつあ何も変わってねえな、と。 これらの美人画(ブロマイド)は、はたして被写体(モデル)本人と似ていたのだろうか、と考える。 僕は、ある意味似ていた、ある意味似ていなかった、、、 どっち付かずの意見で申し訳ないのだが、そう思う。 絵師ならば、同じ線を何度でも描ける筈だ。 きっとそうだ。 自分の話で申し訳ないが、以前自作品中にフリーハンドで地球を描いた事がある。 普段はフリーハンドで円を描く時、いびつさをむしろ重視するんだけど、その時は正円を描くことに『本気』だった。 描けた円をCGで出した正円に重ね合わせたところ、一致した。 同じ線は人間が本気になれば描けると思う。 ましてや緻密な江戸の職人の事だ。 前に描いた美人画の顔の輪廓と寸分違わない輪廓線を描ける筈だ。 なのに、微妙に輪廓線が違うのは、自分自身の顔の描き方のメソッドを狂わせながら、モデルの特徴を盛り込もうとしたのではないだろうか。 つまり量産型ではないのだと。 故に、ある意味(モデルに)似ている(忠実)だろうと思う所以だ。 ある意味似ていなかった、というのは『もしかしたら、この時代の人は顔に対する興味が薄いのではないか?』と思う事だ。 人間の顔といのは千差万別。 ミクロのズレが個性を生み出してる。 先に述べた『顔の描き方のメソッド』で考えると、顔のデザインはメソッドの範囲内でのデザインであり、思いきった大幅な変更を加える事は難しい。 とすれば他に重視すべき点は『仕草』。 その他内側からにじみ出る美しさこそに注視したのではないか。 随分前に拒食症になった女優さんがいた。 最近テレビでもよく見かけるし、その女優さん主演の映画も近日公開されるらしい。 トーク番組で久しぶりにみた彼女はとても美しかった。 そしてその美しさは、必ずしも顔のデザインに依らなかった。 喋り方、たたずまい、話の内容、総合的に観て『イイ女』と思った。 浮世絵に見る美人画はこういった感覚を重視したのではないだろうかと思う。 つまり、単にデザインだったのではなく、イイ女だったのだろうと。 ひいては、そんなイイ女を雇う茶屋があり、茶屋とはいえ観察眼、洞察力を求められたのではないか。 ある看板娘はとても元気な娘、ある看板娘は無口だが時折何とも言えない笑顔を見せる娘、ツンデレってやつかな。 現代よりももっとシビアな感覚で美人を見ていたかもしれない。 外見だけにとらわれず、教養、哲学、人としての器。etc。。。 美人として周囲から認められるハードルは、現代よりずっと高かったことだろう。 逆に言えば誰でも努力次第で美人になれたのかもしれない。 『器量』という言葉はつまり『美人』と表現される事が多いが、僕がこの言葉から受ける印象は『美人』という語句よりももっと多くの情報量を含んでいる。 現代はどうか。 手っ取り早く美しさを手に入れようとするな、と言いたい。 それは単なるデザインに過ぎない。 デザインとは脆いものだ。 磐石ではない。 ひとたび語るならば、全ては露呈するだろう。 さて、最後にまた『モナ・リザ』の話に戻るが、こういった『昔の美人』と言われる絵画を見る時、忘れがちな事を思い出した。 それは、 『俺ァこの娘を描きてえんだ。。。。』 そんな絵師の『想い』だ。 どのような経緯かは今となっては知りようもないが、少なくとも絵師がその絵を描かなければならない理由があったということだ。 その理由は公のものであったかもしれないし、ごく個人的なものであったかもしれないし。 ともかく何らかの執念に似たものが無ければ描かれる事は無かっただろう。 愛と安易に締めくくる事も出来るが、敢えて《愛着》と書きたい。 それを考える時、『モナ・リザ』の微笑に僕はロマンを感じずにはいられなくなる。 |
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2014 11,13 22:03 |
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『持論/レポート』 マイケルジャクソン。。え? これのどこが浮世絵風? 今回、浮世絵の線を体験したくて、どういう感じで描けば浮世絵風になるかを研究したくてやってみてるのだけど。。 浮世絵をやるならば版画で体験しなくてはダメだ、CGなど、と思われるかもしれないが、別に浮世絵師を目指す訳でなし、ただ浮世絵の線を分解してみたいだけなので、自分としては充分な試みなわけだ。 浮世絵と言えば何かこう抽象画的な、デフォルメ的な印象を昔は受けていたのだけど、今は違う。 それはとても写実的な世界なのだな、と思うに至った。 以前、何点かの浮世絵(風景画)をトレースする機会があったのだけど、その際にこの世界観の独特さは一体なんだろうと強く疑問に思ってた。 同時期に歴史を勉強する為に東京各所の名所を訪れた。 そこで見る『江戸の名残』のような風景は、間違いなく浮世絵の世界だと感じた。 手入れのされた松。 手入れされてると言ったのは単にハサミが入ってると言う事ではなく、配置、或はその配置の継承、そういったこと全般を言いたいのだけど。 そんな風景を見てると、『東京』という都市には失われた『江戸』が存在し、また『ああ、浮世絵というのは写実画だったのだなあ』と思う。 そこにおそらく伝統の作風、メソッドというか、『絵とはこういうものだ』という描き方があるので、浮世絵等はあのような独特に見える作風になるのかもしれない。 ともかく、けっして奇を衒ってわざとデフォルメさせて描いているわけではないだろうと思う。 それは例えば着物の柄の緻密さ、建物のディテールまで描きこんでいるのを見ると、『いかにリアルに伝達しようとしたか』と、僕は感じる。 面白い事に、輪廓を描き、色を落としていく浮世絵(版画)の技法は、まるごと現代のアニメーションの世界だ。 このような技術の継承があり、そのような感覚が染み付いているから日本人はアニメーションというものを、かくも受け入れる事が出来た所以かもしれない。 そうやって見るようになってから、(浮世絵の)人物画にもやっぱり写実性を感じるようになった。 以前は『この動きの少なさは何だろうか』と思っていたのだけど、それは当時の人々の『所作』だと気付いた。 一度、両国の露店で地酒がふるまわれていたので、僕もそれをちょっといただいた事がある。 その時に着物姿の(おそらく江戸っ子と思われる)老貴婦人がおちょこをクイっとやるのを見た。 歳は70代くらいだろうか。 慣れた手つきで酒をやった後に、さらりとおちょこを拭き、『ありがとう』と店主にそれを返した。 その手つき、姿勢、首から胴までの回転角、足の曲線。 惚れ惚れするくらいにカッコ良かった。 そして、そういう動きこそが、浮世絵に封じ込められた本当のメッセージなのだろうと思った。 浮世絵は色やデザインを伝達しようとしたのではなく、もっと人間の動きや文化の特徴の本質を伝達しようとしたんじゃないだろうか。 『こういう絵を描きました!』 ではなく 『こういう印象的な瞬間を自分は面白く感じるんだが、あんたどうだい?』 『ああ、こいつはよく解る。おいらもこういう瞬間が好きだ。』 『そうだろう。』 そういうことではないかな。 ある意味、ジャーナリズムではないかと。 と、考えると、その昔一世を風靡した『萌え』という言葉。 『これって萌えない?』 『キター!』 っていうのと同じ感触だ。 つまり、こりゃあ日本人ってやつは何も変わってねえな、と(笑)。 さて今回はマイケルジャクソン。 役者絵ふうに切れ目にして隈取りメーキャップをしようかと思ったけど止めた。 当時の人たちが『所作』に萌え、表現したならば現代は現代の『萌え』感覚を採用すれば良い。 隈取りメーキャップも、歌舞伎の見栄も、浮世絵然とした猫背も必要なかろう。 必要なのはマイケルジャクソンの『所作』だ。 これまで浮世絵を観てきて気付いた技法は盛り込もう。 僕が気付いた点は直線と曲線。 特に浮世絵の曲線は躍動的だ。 そしてその線は、実は手塚治虫先生やディズニーの線に合致すると僕は感じる。 それから顔の角度。 これはじつに面白い。 浮世絵の顔の角度はほとんどが斜め(45度やや角度切り込み)だ。 真横顔(90度)を描いた北斎のコレ(葛飾北斎・百物語・番町皿屋敷) http://www.umakato.jp/archive/ede/05_01.html はとても異色なのではないだろうか。 僕はこう分析する。 描いて見ると解るけど、真横顔(90度)というのは神々しく、どこか人間ではないような印象を受ける。 エジプトやメソポタミアの絵を見ると真横(90度)の顔が多いので解り易い。 この神々しさ、人間では無いかのような感覚は何か? それは横顔(90度)という事で、『目(眼球)』が1つになることに起因するかもしれない。 鳥、牛、山羊、ウサギ、etc...などは目(眼球)が頭部の真横についている。 故に物を正確に観るのが苦手だと聞いた。 これに反して捕食動物は物体の動きを正確に捉える必要がある為に、目(眼球)が前に2つという進化をしたらしい。 例えばティラノサウルスは目が前に2つ付いている。 図 現代の人間は捕食動物ではないが、物事を正確に見極める為に同じ発達をしたのだろう。 捕食動物ではないと言っても、その昔は狩猟が主だったわけだし、他の様々な面に於いてもやはり視覚が発達する必要があったと思う。 僕の持論は別としても、当時の浮世絵師たちは『横顔はなにかおかしい』『真横はなにかむずかしい』ことに気付いていたんじゃないだろうか。 故に浮世絵の人物画には真横の顔が少ないのだと。 少なくとも一因ではないかと。 そんな気がしてならない。 |
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