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2015 02,03 00:05 |
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木を見てるとね、血管に思えてならないのよ。 だからやっぱ動物と同じ、生きるっていう仲間なのかなあって。 でも一つ一つの枝は『個』であるかの如くに陽光を目指す訳よね。 だから木が『個』というより『個』の集合体っていうかね。 バカの一つ覚えみたいに何度も書くけど、アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』(或は『地球幼年期の終わり』)っていうSF小説のクライマックスで、地球の人類が進化して同じ行動、同じ考えを持つようになるシーンがあるんだけど、あれは何の例えだったかなと、ずっと悩んでた。 共産主義、全体主義のようなものを表現していたのではないか。 そういう風に思った事もある。 SFの世界観の中では高確立でその社会は共産主義っぽい世界観の場合が多い。 SFで書かれた事は実現すると言われるから、将来、共産社会がスタンダードになる事もあるのかもしれない。 勿論、それは現代で言う共産社会の事ではない。 共産主義という言葉が違うのかもしれない。 もっと洗練された社会。 そんなふうな社会を建設するには今の人類では無理だと思う。 『個』が強すぎるからだ。 悪い訳ではない。 勿論良いことだと思ってる。 だから僕は未来では生きていけないだろう。 でも『個』というのは『別の個』と相容れない場合もある。 だから『個』がある限りSFでいうところの共産社会など実現しそうにない。 ともあれ、アーサー・C・クラークの投げかけたクライマックスシーンに対する僕の最近の解釈はもっとシンプルになった。 それはこうだ。 『おばあちゃんはどこにいったの?』 『おばあちゃんはね、ほら空を見てご覧。星になったのよ。』 そう。 人が死ぬと星になるという伝説は世界各地にあると思うけど、ああ、それもありかもなあなんて最近思うんだ。 星がいわゆる『木』で、生命が『枝(個)』。 星とは輪廻転生を実現する木、無限サイクルではないかと。 そう思うようになったのには、回り道して回り道したロジックの結果、そう思ったってことなんだけど。 あるでしょ、 あれ自分なんでここいるんだっけ?って。 どうやってここまで来たか、思い出せるのはほんのわずかな思い出だけなのさ。 あんたも同じ血管を持ってんだからさあ、なんか答えてくれよ。 ってな事を考えながらね、夕方の木を見上げてた。 PR |
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