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2014 11,14 19:19 |
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『持論/レポート』 浮世絵の美人画というのを見るにつけ、どうしてみんな同じ顔(パターン)なのだろうと思ってた。 しかしよくよくみてると特徴も見えるようになった。 『ああ、この人は童顔なのだな。』 とか、 『この人は少し日本人離れした目鼻立ちなのかもしれないな。』 だとか。 顔に対する好感というのは時代ごとに違うらしい。 美女、名画として名高いレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』。 『美人?この人が?ウソだろ?』 というのが、子供の頃からの僕の一貫した感想。 故に『モナ・リザ』には様々な説があるようだ。 特に有名なのが、『モナ•リザはダ・ヴィンチ自身ではないか』というもの。 作者本人のサイン入りの証言でも出ない限り、どんな説も憶測に過ぎない。 ただ、あれが絶世の美人だというならば、近代のイタリア映画などを観てモナ•リザに似た女優さんがトップ女優として君臨しないのはおかしいじゃないか。 それはね、昔の人の感覚と現代の感覚が違うからだよ、と結論づければ簡単だ。 しかしそれだけだろうか? 人の感覚とはそんなにも変わるものだろうか? 日本人の美人の顔に対する感覚も大きく変わったと聞く。 たとえば平安時代などはふくよかなおかめのような顔が美人とされていたんですよ、と。 世界が貧困であった昔には、もしかしたら食に困らない裕福な印象を受ける容姿が、人々の羨望の的であったのかもしれない。 話を元に戻すと、江戸時代の浮世絵に見る美人画に、ある意味パターン化された顔デザインを感じていたのは僕だけじゃないと思う。 僕はこう思う。 それは絵師の技法であり主張であったんじゃないか、というのが1つ。 他人の線をマネするのは簡単な事。 観察さえすれば時間もさほどかからない。 難しいのは線を自分のものとすることだ。 これは容易には手に入らない。 だから高名な師に弟子入りし、生活のリズムを共にし、師が何を見つめ考えているのか、体感し習得しようとするのだろうと思う。 描き方を習うというより、師の洞察力を学ぶ、ということではないだろうか。 そうやって自分独自の線というものを確立した中で、夫々の美人の特徴を盛り込んでみたりするのだろう。 『あっちの茶屋の○○ちゃんはかわいいぞ!』 『てやんでえ、こっちの茶屋の△△ちゃんのほうが可愛いやい!』 そういうものだったそうだ。 茶屋には看板娘が居て、店が看板娘を売り出す為に絵師に美人画を描かせる。 ブロマイドだね。 そういう側面が大きいのだと聞いた。 アイドルだね。 AKBだよね。 パフュームだろ。 こりゃあ日本人ってやつあ何も変わってねえな、と。 これらの美人画(ブロマイド)は、はたして被写体(モデル)本人と似ていたのだろうか、と考える。 僕は、ある意味似ていた、ある意味似ていなかった、、、 どっち付かずの意見で申し訳ないのだが、そう思う。 絵師ならば、同じ線を何度でも描ける筈だ。 きっとそうだ。 自分の話で申し訳ないが、以前自作品中にフリーハンドで地球を描いた事がある。 普段はフリーハンドで円を描く時、いびつさをむしろ重視するんだけど、その時は正円を描くことに『本気』だった。 描けた円をCGで出した正円に重ね合わせたところ、一致した。 同じ線は人間が本気になれば描けると思う。 ましてや緻密な江戸の職人の事だ。 前に描いた美人画の顔の輪廓と寸分違わない輪廓線を描ける筈だ。 なのに、微妙に輪廓線が違うのは、自分自身の顔の描き方のメソッドを狂わせながら、モデルの特徴を盛り込もうとしたのではないだろうか。 つまり量産型ではないのだと。 故に、ある意味(モデルに)似ている(忠実)だろうと思う所以だ。 ある意味似ていなかった、というのは『もしかしたら、この時代の人は顔に対する興味が薄いのではないか?』と思う事だ。 人間の顔といのは千差万別。 ミクロのズレが個性を生み出してる。 先に述べた『顔の描き方のメソッド』で考えると、顔のデザインはメソッドの範囲内でのデザインであり、思いきった大幅な変更を加える事は難しい。 とすれば他に重視すべき点は『仕草』。 その他内側からにじみ出る美しさこそに注視したのではないか。 随分前に拒食症になった女優さんがいた。 最近テレビでもよく見かけるし、その女優さん主演の映画も近日公開されるらしい。 トーク番組で久しぶりにみた彼女はとても美しかった。 そしてその美しさは、必ずしも顔のデザインに依らなかった。 喋り方、たたずまい、話の内容、総合的に観て『イイ女』と思った。 浮世絵に見る美人画はこういった感覚を重視したのではないだろうかと思う。 つまり、単にデザインだったのではなく、イイ女だったのだろうと。 ひいては、そんなイイ女を雇う茶屋があり、茶屋とはいえ観察眼、洞察力を求められたのではないか。 ある看板娘はとても元気な娘、ある看板娘は無口だが時折何とも言えない笑顔を見せる娘、ツンデレってやつかな。 現代よりももっとシビアな感覚で美人を見ていたかもしれない。 外見だけにとらわれず、教養、哲学、人としての器。etc。。。 美人として周囲から認められるハードルは、現代よりずっと高かったことだろう。 逆に言えば誰でも努力次第で美人になれたのかもしれない。 『器量』という言葉はつまり『美人』と表現される事が多いが、僕がこの言葉から受ける印象は『美人』という語句よりももっと多くの情報量を含んでいる。 現代はどうか。 手っ取り早く美しさを手に入れようとするな、と言いたい。 それは単なるデザインに過ぎない。 デザインとは脆いものだ。 磐石ではない。 ひとたび語るならば、全ては露呈するだろう。 さて、最後にまた『モナ・リザ』の話に戻るが、こういった『昔の美人』と言われる絵画を見る時、忘れがちな事を思い出した。 それは、 『俺ァこの娘を描きてえんだ。。。。』 そんな絵師の『想い』だ。 どのような経緯かは今となっては知りようもないが、少なくとも絵師がその絵を描かなければならない理由があったということだ。 その理由は公のものであったかもしれないし、ごく個人的なものであったかもしれないし。 ともかく何らかの執念に似たものが無ければ描かれる事は無かっただろう。 愛と安易に締めくくる事も出来るが、敢えて《愛着》と書きたい。 それを考える時、『モナ・リザ』の微笑に僕はロマンを感じずにはいられなくなる。 PR |
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