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2014 09,21 12:33 |
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映画『猿の惑星』の日本語版で、《NO》という英語を『やめろ』と意訳しない方が、後々作品的に効いて来ると思うので論じたい。 このシリーズには「急速に高度な知能が進化した猿が最初に話した言葉は『NO』だった」という設定があって、これは、旧作品から受け継がれている設定だ。 『ジェネシス』ではこのシーンが実際に具体化され、その最初の言葉を話した状況を鮮明に把握出来る。 そのシーンは60年代にはじまったこの映画ムーブメントの中でも、ひと際強烈なインパクトを残したと思っている。 ある種の恐怖すら感じる素晴らしいシーンだ。 日本語吹替え版ではこの、猿の最初の言葉『NO』が『やめろ』と意訳さており、僕はこれに違和感は感じないまでも、損な訳だと思う。 英語の苦手な日本人でも流石にノーくらいは知っているし、『ノーと言えない日本人』というのは一昔前のイメージになりつつもある。 『ノー』は今や日本語に於いても『ノー』であり、敢えて翻訳しなければならない理由はないのではないだろうか。 上記の理由だけでも充分だと思うが、実はこれよりももっと重大な意味合いが『ノー』には潜在してると思う。 それは『NO』の反義語が『YES』であることだ。 『イエス』というと何を連想するだろうか。 僕はまずイエス・キリストを連想する。 つまりこの映画の核心に潜在する恐怖感は、反社会、反秩序であり、進化を遂げる最初の猿は堕天使ルシファーの構図で語られることにある。 ならば人間は神なのか、という大それた結論に帰結してしまうが、実際、構図でいくとこうだ。 僕は子供の頃、『猿の惑星』が怖かった。 街のお祭りのパレードでは『猿の惑星』の着ぐるみを着たお兄さん達が、沿道の子供達を威嚇したり、時にはさらっていく事も。。 僕もそういう猿達に泣かされた一人だ。 保育園くらいのトラウマに似た思い出だ。 《怖いが見ずにはいられない。》 それが『猿の惑星』にたいする僕の最も的を得たイメージだ。 年上のお兄さん達がたむろする玩具屋さんのショーケースには『猿の惑星』のマスクが陳列してあった。 なぜかフランケンシュタインのマスクと並んで。 そしてそういった怪奇映画のマスクは、大抵の場合、僕の背よりももっとずっと高い、見上げる位置にそびえて陳列してあった。 《怖いな》 と思いつつも、ついついそれを見つめてる自分がいた。 そう。 『猿の惑星』は基本的には『怖い』のだ。 『かっこいい』のではない。 それが基本コンセプトに近いのではないだろうか。 『猿の惑星』とうコンテンツは元来、高度経済成長で躍進する日本が世界経済に影響力を強めていた頃、作者が風刺の意味合いも込めて書かれた作品だと聞いている。 昨今の作品においては、それは日本に対するイメージではないと思うが。 話を元に戻すと、堕天使ルシファーの構図で語られるこのコンテンツは、簡単に言ってしまえば悪の華なのだ。 旧作品の『猿の惑星』では大概の場合、人間視点で語られた。 見るものはチャールトン・ヘストンに感情移入した筈だ(旧作品でも後期にはコーネリアスの視点で語られる作品もある)。 『ジェネシス』に始まる新シリーズは違う。 どちらかと言えばシーザーに感情移入するように作られてはいないだろうか。 最近のアメリカ映画が、人間視点ではない作品が増えてきたのは感じていた。 それはロボットにしろ、宇宙人にしろだ。 シーザーの物語もそうなのだ。 この映画で『NO』を『やめろ』と日本語意訳するのは損失だ。 『NO』を日本語版にするなら『ノー』だ。 位置づけは映画『オーメン』のダミアンだと思った方が映画の味わいが増す。 PR |
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