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2014 09,21 10:47 |
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映画『猿の惑星』が公開されてる。
自分はまだ新作を見ていないけど、旧作から全てのシリーズをDVDで持ってる。 昨夜は『ジェネシス』のテレビ放映があった。 急激に高知能を得た猿が最初に話した言葉は『NO』だった。(テレビ版では『やめろ』と意訳されていた) この設定は初期の着ぐるみの『猿の惑星』時からの設定で、劇中にもその逸話が台詞で出て来た記憶がある。 それが近年の『ジェネシス』で実際に映像化され、まさに猿が最初の言葉『NO』を叫ぶ瞬間を、僕たちは目の当たりにする事が出来るわけだ。 昨夜のテレビ放映の『ジェネシス』を見ていてふと気付く事があった。 それは、どんなに高度な知能を得ようと、猿は機械に乗らない事だ。 映画のラスト近く猿は自動車には乗らず、敢えて馬に乗る。 これは旧作の猿の惑星から一貫している。 自動車に乗った猿を見た事がない。 やはり馬なんだよね。 普通に考えたら、この時代に高度な知能を持った猿が産まれたと仮定して、覚えるであろう高度文明の一つに自動車の運転があげられる筈だ。 自動車の運転はそれほど難しいものではない。 幼児が自動車を運転するびっくり映像を見た事がある。 特に不思議ではない。 子供なんて教えれば、身体機能の範囲内で大概の事は実現させる可能性を持っていると思う。 じつは難しいのは交通法規であり、人間社会特有のモラルだ。 これらは単に知能が進化しただけでは理解に困難だ。 理解するには人と人の協調性が必要だし、善し悪しの判断の価値観の共有が必要だ。 話を元に戻すと、映画『猿の惑星』シリーズでは猿の乗り物は『馬』。 『自動車』は使わない。 何故だろうか? まず、可能性として挙げられるのが、劇中のイメージだ。 人間の進化の過程と重なるように、猿の文明を捉えていくならば、人間もこの映画のように、まずは『馬』をはじめとする動物から乗りこなしてきたと言う事。 理由としては、車輪が発明されるのはもっと文明が成熟してからだし、蒸気機関や電気の発明まではまだまだ時間が必要だっただろう。 『馬力』という力の単位があるように、馬が動力源だった時代が、文明の黎明期にはあったという事実を映画に盛り込む事でリアリティを演出したいのだろう。 でもはたしてそれだけなのだろうか? どうも昨夜の『ジェネシス』のTV放映で再確認していると、それだけでもなさそうに感じた。 映画製作側が意図したかどうかは別として(意図していないと思うが)、僕の考えはこうだ。 文明の進化の過程において、『馬』を動力とする過程は本当に必要不可欠だったのだろうか。 古代人の知能は現代人の知能よりも高かったという説がある。 それは僕もそう感じる。 危険と隣り合わせの世界で、どのようにすれば安全に効率的に、快適に過ごせるのか。 ゼロから考えていったのが古代人だ。 安定した食料を確保する為に農耕や牧畜を発明した。 では現代人はどうか。 これだけの文明に囲まれながら、得意とするのは『今ある文明の利用の仕方』を考えていると言う事。 勿論、発明は日々あれど、どれも規模の小さなもの。 或は今ある文明に結合した発明だ。 ゼロから世界観を一転させる発明はもう何百年も発見されていないのではないだろうか。 それだけの『考える力』を持った古代人が、馬を動力源に利用した理由は何か? 手っ取り早く解決する方法だった、と言うのが一番近いだろうと、まずは考える。 ではなぜその手っ取り早い方法から、燃料を使った動力へと進化させたかと言えば、、、 やはり動物と言うのは生命に限界があるし、そういった意味では動力源としては不安定だったのだろうと思う。 もう少し言うならば、馬(動物)に対する憐れみの感情もあったのかもしれないと思う。 『かわいそうだ』 おや?と気付く。 もしかしたら、古代人が馬を動力としたのは単に技術がなかっただけではなく、『従わせる(obey)』といった感情が潜在意識の中に含まれていたとしたら。。。。 『従わせる』という極めて原始的な感情は、現代人の中にも勿論ある。 しかしその感情は古代人の方がより強いのではないかと思う。 多分、文明の成熟と言うのは、知能の高度化や、技術力の成熟度、それだけではなく、心の内部で成長していく過程だったのではないだろうか。 そう考えると映画『猿の惑星』シリーズで馬を使った演出に感じたものが自分の中で明らかになって来た。 それは『恐怖』であり『威圧感』だ。 自動車は従順に従うがそこに感情はない。 しかし動物は馬は違う。 腹も減るし、痛がるし、怖がるし。 そういう『感情を持つ者』を従わせるという原始的な快楽に、見るものは潜在的に恐怖するのかもしれない。 さて、ここまで納得してもらえたならば、ここからの未来予測は俄然楽しくなる。 『感情』というものが文明の分岐点に作用を及ぼすならば、僕の考える未来予測はこうだ。 まず、食事が大きな転機を迎える事になる。 食肉、魚食。 まず食肉から変化は始まるだろう。 より人間に近い感情、より人間に近い肉体。 そういう者を食する事に疑問を抱き始めたら、発明の転機だ。 牛肉と全く同じ味の合成ペースト。 豚肉と同じ味の食用合成油脂ガム。 ラム肉と同じ食感の食用合成フィルム。 それらをすでに調理してカプセルに閉じ込めてある。 勿論、実際の食肉よりも高い栄養価、満足感が得られるように工夫して出される。 一部の有力者の間ではこんな会話が交わされるだろう。 『先日、本物の牛肉を食べたのだが、、、、』 『牛肉!! どこでそんなものが手に入ったんですか!!?』 『いやあ、知人が保護動物管理局の人間でね。保護動物は天敵がいないから、彼らの仕事はもっぱら彼らを殺す事なのだよ。』 『殺すなんてかわいそうに!!』 『君は知らないだろうが、本物の動物はけっして一般人の目には触れないシェルターの中だ。我々が普段動物園で見るのはかつての動物を記憶を合成しCG化したホログラムだし、ペットですら衛生上、本物の動物を飼う事は禁止されている。』 『友人が犬を飼っています。。』 『その犬はいつからその家に住んでいる?』 『祖父の代からいるそうです。以前お宅にお邪魔した折、壁にかけられていた古い写真に同じ犬が写っていました。一緒に移っていたのは友人の祖父が若い頃だと思われます。』 『おめでとう。その犬はロボットだよ。』 『ロボット?』 『そうだ、その犬に限らず、人々が飼っているあらゆる生き物は全てロボットなのだよ。』 『とてもそうは思えません。』 『君は生き物が死ぬのを見た事があるか?』 『実際には、、ありません。。。しかしテレビでは頻繁に動物が死ぬ場面を見ます。』 『テレビは過去の動物の記憶を合成しているにすぎない。君、生命とは必ず死ぬものなのだよ。それが我々の周りではもう何百年、いや何千年も『死』が起きていない。それは、我々が実際に見る動物が、人工的に創造されたものだからなのだよ。本物の動物は保護動物として、特別なシェルターの中で管理されている。そこで頭数を管理する為に、定期的に屠殺処分が行われるのだが、この時に出る肉が闇で取引される事があるのだよ。勿論、見つかれば厳罰に処される。私が知っている中で一番重かった判決は死刑だった。だから、本物の動物の肉を食べる事は、本当に権力を持った者の最高級の贅沢と言える。』 『やはり本物の肉は美味しいのでしょうか?』 『うーむ。。。それがそうでもない。臭みがひどいし、何かこう、、、喉の奥で引っ掛かるような、拒絶するような、、言い表せない何かがある。味は流通している合成肉と大差ない。しかし決定的な違いがあるのだ。私はそれが何なのか解らなかったが、やがて理解出来るようになった。その決定的な違いとは《魂》だ。』 『魂??』 『そうだ魂だ。市場の合成肉では決して感じる事の無かった《感謝》というのかな、上手く言えないが、そういう感情がわき上がって来るのだ。本物の肉というのは君、そういうものなのだよ。』 『私も一度味わってみたいものです。その《魂》というものを。』 『うーむ。きみはまだ若い、経験を積んで昇進してゆけば、やがてそういう本物の肉を食す機会も与えられるだろう。』 『はい! 精進致します!!』 『うむ。チャンスというものはどのような人間にも平等に与えられるものだ。ところで君はいくつになった?』 『はい! 3213歳であります!!』 『そうか。育ち盛りだな。』 『はい!!』 -おわり- PR |
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