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2014 04,07 10:28 |
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神社には様々な愛され方があると思う。 ここ埼玉県 白岡市 の久伊豆神社は、数ある神社の中でも本当に幸せだなあと思う神社。 何しろ素朴。 そして、今この時代でも神社が地域の『遊び場』であることだ。 幾度となく足を運んでいるけど、とくに祭りという特別な行事でなくとも子どもの走り回る声が絶えたことがない。 僕らが子どもの頃、神社というものは確かに遊び場だった。 神社に行こう。 神社でかくれんぼ。 神社で笑って、神社でカラスが鳴けばさようなら。また明日。 神社は神事を行う場所というより、地域の一部であり友達と同じだった気がする。 いくつかの暗黙の規則はあったよね。 神社に向かっておしっこをしてはいけません。 当たり前の事だけど、神様がいるからね。 大きく腫れ上がってしまうぜよ、と。 遊んでいると時折カランカランと鈴の音、パンパンと手を合わせる音。 見ると、買い物帰りのおばさんが参拝している様子。 大声を立ててはいけません、と言われた記憶はない。 大いに大声で元気に遊べば良い。 走り回って、声が枯れるまで笑って。 それが神社だった。 今になって思えば、ほんと神様とよく遊んだよねって思い出ばかり。 さて、この久伊豆神社は今でも神様と人が『遊ぶ』幸せな場所だと感じる。 今回、ここで伝統芸能の獅子舞があるというのでやってきた。 豊作を祝い、疫病退散を祈願するための奉納の舞いなのだそうだ。 数年前までは2年に一度、近年になって1年に一度と頻度を増し、今年のそれは市を絡めた少し規模の大きなものに発展していた。 細々と伝統を守り続けた人たちの甲斐あってか、また昨今のブームのような風にのってか、瀕死であった伝統芸能に再びのスポットが当たり始めた事は、守る側にも見る側にも喜ばしい事だ。 満面の桜の中に土俵が位置し、鳥居から境内の細長い道を獅子がゆく。 時折、思い出したかのように吹く風に無数の花弁が乱舞する。 その様はどうみても『祝福』というより他の表現が見当たらない。 おそらく神社というものにとって、素朴な日常こそ幸せというものなのだろうなと思う。 人に愛されて、人が集う場所。 日々の祈りは必ずしも特別な祈りとは限らない。 健康でありますように。 豊かでありますように。 そして、集約するなら広義の意味で 『あした天気になあれ』 そこに帰結するのかもしれない。 僕の生まれ故郷の神社は近年随分と寂しげになったものだよ。 神社よりも楽しい場所が見つかったのか、とにかく今の日本は楽しい事で一杯だからね。 それもいい。 ただ神社はそのあいだも、いつでも僕らの暮らしを静かに見守ってくれている。 そしていつかまた、神社がにぎわう時代もやってくる。 そのくり返しなのかな。 神社が僕らの生活を見守ってくれているならば、僕らも神社の幸せを願わずにはいられない。 神社で遊ぼうよ。 神様といっしょに。 きっと神様もよろこんでくれるんじゃないかね(笑) PR |
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